好きなことを始めるのに他人の承認がいらない理由。

好きなことを始めるのに他人の承認がいらない理由。

 

何かを始めようと思ったときに、一番ブレーキをかけているのが、自分だったなんて話をよく耳にします。

時間を積み重ねれば積み重ねるほど、後回しにしていき、気が付けば、「まあ、いいか」と、結局何も始められないまま、もやもやを抱えた状態で日々を過ごしていく。

なんてことも少なくありません。

むしろ、そういうことの方が、多いし、当たり前なのかもしれません。

 

時間は限られていて、やらなければならないことも沢山あります。

少し時間ができたからといって、身体を休めないことには、日々の「やらなければならないこと」にだって支障をきたします。

 

ああ、あんなことしたかったなぁ。なんていう思いは、「そういう時期もあった」という諦めの中に閉じ込めて封印していく。

 

なぜ、ブレーキをかけてしまうのか?

当然、疲れなどもあると思いますが、一つの原因として考えられるのが、やはり「簡単なことではない」というブレーキ意識があって、行動し、それを積み重ねたからといって、成熟するわけなんかないっていう思いがあるのではないかと。失敗することに対し、恥ずかしいとか、無駄とか、意味がないという、そういう思考回路が先にたってしまう。

 

それをしたいと思っていたのはなぜなのか?

沢山の興味の中に、承認欲求があるから人は頑張れるなんて言われたりもします。

誰かに褒められたい。チヤホヤされたい。うらやましいと思われたい。他の人と差をつけたい。

しかし、この承認欲求は、昨今、否定される風潮が出てきました。

ベストセラーの「嫌われる勇気」のなかで、承認欲求は明確に否定されています。

誰かに褒められたいということは、誰かに褒められるための行動をとることであり、自分の人生を生きていないという解釈です。

フェイスブックで「イイね」をたくさん集めることや、ツイッターのフォロワーの数を気にするあまり、それらの人たちに喜ばれるような行動をしていく。それによって、息苦しくなるという思いをした人もいると思います。SNS疲れなんて言われたりします。

 

では、どこにやりがいを求めていけばいいのか?

人に褒められたいという思い以外に、どこにモチベーションを持てばいいのかというのは、当然の疑問としてあると思います。

 

最近言われだしたのが、承認欲求にも、種類があり、

「ドーパミン型承認欲求」と、「オキシトシン型承認欲求」があるとのこと。

ドーパミンも、オキシトシンもどちらも脳内物質なのですが、

ドーパミンは快楽物質で、多幸感や意欲が増すといわれています。

オキシトシンは親切、愛情の脳内物質。オキシトシンが放出されると、共感や愛着が持てるようになります。

 

俗に言われている、承認欲求はこの「ドーパミン型」を指していると思われます。

ドーパミンは、褒められたり、達成したときにも分泌されます。ドーパミン自体は意欲的になれるし悪いものではないのですが、よく依存症のプロセスでドーパミンが大量に分泌されることにより、行動がやめられなくなってしまい、その先で、無気力状態になるなんて言われたりしています。

褒められたいと思い、行動する。

もっと褒められたいから、注目を集めたいと少し刺激を強くし、行動する。

さらに、さらに、と続いていく。

気が付けば、その行為自体がやめられなくなり、さらにさらにと期待に応えようとし、苦しくなっていく。

その苦しさは心の弱さではなく、脳内物質の異常からくる病気です。

 

ドーパミンは刺激に慣れてくると、さらに強い刺激を求めるようになり、エスカレートするからです。

 

よく、ゲームなどに、そのプロセスを仕組ませているなんて言います。

少しだけ難しくする。だけど、頑張れば達成できる状態を提供する。

それをクリアして、ドーパミンが出て、また、次の難しさに挑戦する。

そこで得られるだろう「快楽」を期待し、またドーパミンが出る。

それらが積み重なることにより、戻れなくなり、やめられなくなる。

 

依存症で得られるのは、枯渇であり、苦しみです。

決して行動的に動いて、前に進んでいるのではなく、ただの迷走です。

 

自分の本意ではない方向へと流れて行ってしまう「承認欲求」は、周りも自分も不幸にしてしまうかもしれません。

 

では、オキシトシン型とはどういったものでしょうか?

オキシトシンはドーパミンと違い、エスカレートしないので、それ自体で満足が出来ます。

 

オキシトシンを十分に出せるようになると、「小さな幸せ」というものに、多く気付けるようになります。ささやかさに、喜びを見出せるようになれば、枯渇や、依存症からは離れた、日々心地よさとともに生活ができます。

オキシトシンは誰かへの感謝の気持ちを思い浮かべるだけでも分泌されます。ちょっとしたことでも「ありがとう」と伝えたり、その伝えられた人物も受け入れてもらったことで安心し、オキシトシンが出ます。他には映画や小説などで物語を通して感情を動かすことで現実の物事にも共感や愛着が持てるようになるそうです。

 

その、オキシトシン型の承認欲求とは、例えば、自分が作ったものに対し、目の前の人が喜んでくれたというだけで、自らの幸せにつながるという考えです。

もちろん、喜んでくれなかったとしても、それはまた別の問題でもあります。

ただ、自分が正直になったときに、誰かが受け入れてくれたという感動を、味わえるような、状態を意識しておくということなのかもしれません。

 

自分がやった行動に対しても、喜びを得られる状態。

それは、自らの肯定感に繋がり、穏やかな気持ちで、日々を過ごすことができると思います。

 

そこで、最初に戻るのですが、何かを始めるときに、一番にブレーキをかけていたのが自分だったというのは、やはり「思い込み」の部分も多いと思います。

やるからには「成功」しなくてはいけない。とか、「誰か」に馬鹿にされたくないという思い。

自分勝手に好きなことをやって、自己満足なんて言われたくないという思い。

ここまで読んでいただいた方は、もうお分かりだと思いますが、それらはすべて、「他人の人生」を生きようとしている状態になります。

褒められなければやる必要がない。

成功しなければ、意味がない。

 

そんなことはありません。

基本的に、自らの喜びに対し、他人に褒められる必要はありません。

自分が、しっかりと喜びを感じられるのであれば、それで十分なのです。

自己満足が出来ることは素晴らしいことです。

 

自己満足という言葉が、悪い意味でとらえられるのは、その行動に対し「客観視できていない」という意味が含まれていると思います。それは、他人に対しての配慮がないとか、ルールがある中で、一人違うゲームをしているとか、そういう意味合いもあるのかもしれません。

しかし、自らのルールで、自らのゲームを行うことにより、それらはきっと突き抜けた状態になります。

逆に、「妥協しないであなたがこだわったものが見たい」なんて言葉がでてくるかもしれない。

その時には、すでに、枯渇ではなく、幸せな状態にいるのではないでしょうか?

自己満足という言葉が否定的なニュアンスのもと誰かの足を引っ張ることがあるというのは、やはり今までの社会が他人の人生を生きろというプレッシャーが多くあったからなのかもしれません。

それらの言葉は、「こだわり」という言葉に変換して、自らで受け入れていけばいいのだと思います。

承認は必要ありません。

 

社会が変化しようとしています。

AI技術は発達していき、ある程度の人員削減も余儀なくされています。

これまでの社会は、競わされて、差をつけて、羨ましいと思われたいという、欲求を刺激させられた状態で、要求に対し従順な人材が求められていました。

今までの教育が、軍隊のようにみえるなんて言われたりもします。競わされ、番号で呼ばれ、規律を守り、脱個性。「なぜ勉強するの?」なんて疑問は子供のころ、誰もが通過することでしょう。

この数式や、歴史的出来事の年号が、人生の何の役に立つのだろうかなんてことも思ったりしたでしょう。

ある意味、それら無意味さを覚えさせる行為に耐え抜いた証に、たどり着いた先が、一つの従順さの証明であり、今までの社会にとっての「都合」の良さのバロメーターだったりするのかもしれません。

この人は、そこを潜り抜けてきたのだという「証明」のようなもの。

 

でも、そんな時代が変化しようとしています。

唐突に「従順であること」が否定されていきます。人の代わりに、AIが作業してくれます。

機械の代わりに、文句言わず動いてくれた人たちは、本物の機械が優秀になっていけばいくほど、必要なくなっていきます。

今度は、新たな個性を求められていく時代です。その個性が受け入れられる時代です。

自らにブレーキをかけることは、同調圧力が重要な社会では、とても役に立ちました。

他人の邪魔をしない。規律を守る。ルールに従う。

もちろん、それらはとても素晴らしいことでした。

利己的ではなく、利他的な考え方。

だけれど、もし、そのことによって少なからず、息苦しさを感じ、辛い思いをしているのなら、少しずつでも、自らの幸せについて行動しても良いかもしれません。

利己的を深く追及すると、利他に繋がる。

そんな考えもあります。

自分の喜びが、他人の喜びに繋がっていくかもしれません。

AIは仕事を奪うことがあるかもしれませんが、喜びのサポートをしてくれることもあるでしょう。今までは、多くの人手が必要だったことも、AIにより、カバーしてくれることがあります。

もし、なんとなく、漠然と言い訳をつけて諦めていたことがあったのなら、少しだけでも挑戦してみると、見えている世界が変化していくかもしれません。

そんな気持ちをサポートしてくれる、社会になろうとしています。

図書館に行かないと調べられなかったことや、分厚い電話帳からほしい情報を見つけないといけなかった時代とは違い、今ではすぐに検索して、探したいものを見つけることができます。

ぜひ、ご自分の新しい「何か」に出会っていただきたいと思います。

 

 

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